【公式】恵蘇八幡宮~朝倉地域の総社~

由緒・歴史

由緒

御祭神

  • 斉明天皇さいめいてんのう(第37代、第35代皇極天皇こうぎょくてんのうが重祚)
  • 応神天皇おうじんてんのう(第15代)
  • 天智天皇てんぢてんのう(第38代)

略記

斉明天皇7年(661)建立。斉明天皇は百済救援のため朝倉町長安寺の橘広庭宮に皇居と大本営を遷されました。中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と武運長久を御祈願のため宇佐神宮の祭神 応神天皇の御霊を奉り朝倉山あさくらやま天降八幡あもりはちまんと崇められました。その後 天武天皇の御代、白凰元年壬申(673)斉明・天智天皇の二神霊を勅命により合わせ祭り恵蘇八幡三柱大神と称しました。昔は上座郡中三十三村の総社でしたが現在は朝倉地域の総社氏神です。明治14年(1881)に郷社に列せられました。

斉明天皇の遷幸と崩御

4世紀末、朝鮮半島は百済・高句麗・新羅の三国に分割され、7世紀に至るまで和戦を繰り返していましたが、百済はついに新羅・唐の連合軍に亡ぼされます。斉明天皇6年9月5日(660年10月17日)百済滅亡の報告を受けた斉明天皇は、百済を助けるための出兵を命じ、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に筑紫国朝倉橘広庭宮に遷幸します。

朝倉橘広庭宮

朝倉橘広庭宮

難波宮[大阪]へ12月24日(661年2月1日)軍器の準備のため行幸し、斉明天皇7年1月6日(661年2月13日)に難波津から出航しました。

『日本書記』巻第二十六 斉明天皇

齋明天皇六年九月己亥朔癸卯。百濟遣達率、沙彌覺從等、來奏曰。今年七月、新羅恃力作勢、不親於隣。引搆唐人、傾覆百濟。君臣總俘、略無噍類。~(略)~ 十二月丁夘朔庚寅。天皇幸于難波宮。天皇方隨福信所乞之意。思幸筑紫將遣救軍。而初幸斯備諸軍噐。~(略)~ 七年春正月丁酉朔壬寅。御船西征、始就于海路。


斉明天皇六年九月の己亥の朔癸卯。百済、達率、沙弥覚従等らを遣して、来て奏して曰さく。今年の七月に、新羅、力を恃み勢を作して、隣に親びず。唐人を引搆せて、百済を傾け覆す。君臣総俘にして、略噍類無し。~(略)~ 十二月の丁卯の朔庚寅。天皇難波宮に幸す。天皇、方に福信が乞す意に随ひて、筑紫に幸して、救軍を遣らむと思ひて、初づ斯に幸して、諸の軍器を備ふ。~(略)~ 七年の春正月の丁酉の朔壬寅。御船西に征きて、始めて海路に就く。

御歳68歳の斉明天皇は、伊豫熟田津の石湯行宮、娜大津の磐瀬行宮を経て、5月9日(6月14日)朝倉橘広庭宮に遷幸されました。

しかし、滞在わずか75日後の7月24日(8月27日)斉明天皇は病気と長旅の疲労のため御歳68歳で崩御されました。

『日本書記』巻第二十六 斉明天皇

五月乙未朔癸卯、天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。~(略)~ 六月、伊勢王薨。秋七月甲午朔丁巳、天皇崩于朝倉宮。


五月の乙未の朔癸卯。天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居ます。~(略)~ 六月に、伊勢王、薨せぬ。秋七月の甲午の朔丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。

喪に服した中大兄皇子

斉明天皇が崩御された7日後の8月1日(9月11日)皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)は、母の御遺骸を一時朝倉山上(御陵山)に御殯葬になります。

朝倉山(御陵山):斉明帝藁葬地

朝倉山(御陵山):斉明帝藁葬地

中大兄皇子は、御陵山の山腹(現在の八幡宮境内)に木皮のついたままの丸木の柱を立て、板を敷き、芦の簾を掛け、苫をふき、あばらなる屋に、塊を枕にし、1日を1ヶ月に代えて12日間喪に服されたとされています。そのことから、この地は「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ばれるようになりました。

また『日本書記』では、天皇の亡骸を奉徙り磐瀬宮に到る際の夕刻、朝倉山の上に大笠をかぶった鬼がいて、天皇の葬儀を臨み見ており、人々は皆それを怪しんだと伝えています。

『日本書記』巻第二十六 斉明天皇

六月、伊勢王薨。秋七月甲午朔丁巳、天皇崩于朝倉宮。八月甲子朔、皇太子奉徙天皇喪、還至磐瀨宮。是夕於朝倉山上、有鬼、着大笠、臨視喪儀。衆皆嗟恠。


六月に、伊勢王、薨せぬ。秋七月の甲午の朔丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徙りて、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆皆嗟怪ぶ。

10月7日(11月7日)中大兄皇子は、天皇の喪を帰すため船を出します。その途上で、斉明天皇を哀慕して「君が目の 戀しきからに 泊てて居て かくや戀ひむも 君が目を欲り」と和歌を詠みました。

10月23日(11月23日)難波津に到着。そして11月7日(12月6日)飛鳥の川原で殯して、9日まで発哀されたのでした。

『日本書記』巻第二十六 斉明天皇

冬十月癸亥朔己巳、天皇之喪、歸就于海。於是、皇太子泊於一所、哀慕天皇。乃口號曰、「枳瀰我梅能 姑裒之枳舸羅儞 婆底々威底 舸矩野姑悲武謀 枳瀰我梅弘報梨」十月乙酉、天皇之喪還泊于難波。十一月壬辰朔戊戌、以天皇喪殯于飛鳥川原、自此發哀至于九日。


冬十月の癸亥の朔己巳に、天皇の喪、帰りて海に就く。是に、皇太子、一所に泊てて、天皇を哀慕ひたてまつりたまふ。乃ち口号して曰はく、「君が目の 恋しきからに 泊てて居て かくや恋ひむも 君が目を欲り」十一月の壬辰の朔戊戌に、天皇の喪を以て、飛鳥の川原に殯す。此より発哀ること、九日に至る。

斉明天皇の崩御の後も中大兄皇子は、引き続き皇太子のまま称制しました。天智天皇2年(663)「白村江の戦い」にて唐・新羅連合軍に大敗の後、近江大津宮へ遷都。天智天皇7年1月3日(668年2月20日)第38代天皇に即位します。「白村江の戦い」の後は、唐と友好関係を結び、遣唐使を派遣する一方で、国防の充実を図り、律令国家としての整備が図ります。そして国号も倭国から「日本」と改められ、国としての礎を築いたのでした。

※表記:旧暦(新暦:グレゴリウス暦)